■.赤井さんと手を洗う

「わーっ!凄い!」

 赤井さんがこっそり予約してくれたのは、超高層ホテルの上層フロアのお部屋。ドアを開けた瞬間、その広さと高級感溢れるインテリアに、私は大きな歓声を上げていた。

 にしてもこれはきっと、かなり良いお値段がするのでは。気後れしてしまって少し足が竦むけれど、カーテンの開いた窓から美しすぎる夜景が飛び込んできて、そんな思いは何処かへいってしまう。

「すごい……!綺麗、っ!」

 窓に駆け寄りながら、煌めくネオンの一つ一つに目をやっていく。遠くの方まできらきらとした粒が揺らめいていて美しい。見たことのない景色に感動して赤井さんへ熱い視線を送ると、彼は「あまりはしゃいでくれるな」と言いたげに小さく笑っていた。隠しきれない照れがそれとなく滲み出ている。

 興奮冷めやらない私を見守りながら、赤井さんは手に持っていた、お酒とおつまみが入った袋をテーブルに置いて、ニット帽とジャケットも脱ぎ去っていった。すっかりお家モードになって、表情も柔らかくなっている。

「名前、先に手を……」

 おいでと、優しくバスルームに促されて、私はまるで赤井さんの愛犬かのように、その背中を追った。

 正直、赤井さんに飼ってもらえるなら、そんな人生は幸せだろうなと思ってしまう。こんなことを考えてしまう自分は、傍から見たら痛いのかもしれないけれど、これは愛でしかない。幸せなひと時を堪能するように、ルンルン気分で洗面所を覗くと、赤井さんは既に洗面器に手を伸ばしていた。その広く逞しい後ろ姿は、なんと表現したら良いのだろう。勇ましい戦士のような、それでいて品位ある王様のようでもあり。とにかく私の愛する、大好きな背中だった。

「……っと」

 気づけば赤井さんの背中に向かって駆け出し、後ろからぎゅっと抱きついていた。赤井さんは絶対に、鏡越しから私の姿を見ていたはずなのに、こうして驚いてくれる。そんな反応も嬉しくて、額を背中にギュッとくっつけていた。

「ふふっ……今の赤井さんの背中、隙だらけですね!」
「隙だらけ……?ホォ〜、そういうことか」

 どういうことか分からないけれど、赤井さんは二ヤリとした笑みを浮かべながら、ゆっくりとした動作で石鹸に手を掛けていく。しっかりと泡立て、いつもより念入りに手先を洗っている様子から、どうやらこの時間を長引かせてくれるらしいと分かった。その好意に甘えて、私はさらに全身を重ね合わせるように身体を寄せていく。

「んーっ、好き!」

 シャツ一枚の赤井さん身体は、とても温かい。このまま溶け合ってしまえばいいのに。実際にはそうはいかないけれど、いつまでもこうしていたいと、心から思った。

「好き……っ」

 私は赤井さんの背中に顔を寄せて、煙草の香りの奥に潜む赤井さんの匂いを感じようと、何度も深呼吸をする。今ならなんでも出来そうだ。いくら赤井さんでも、手を洗っているときはこんなにも無防備になる。だったらこれからは手を洗う度に、こうして赤井さんの背中を堪能しよう。密かに心に決めた決意にニンマリしていると、赤井さんが手を洗い終えてしまった。

「さあ、次は名前の番だよ」

 赤井さんは真っ白でふわっふわのタオルを手にしながら、少し横にずれてくれる。でも、まだ離れたくなかった。好きなだけ味わえていた、赤井さんの背中が名残惜しかった。うーん、と唸るように引っ付いていると、「まだ、夜は長いだろう?」と優しく耳元で囁かれた。

「うっ……」

 そんな甘い誘惑にドギマギしてしまって、仕方なく赤井さんの背中から離れる。頬が赤くなっている気がして、顔を上げられない。どうしても顔がにやけてしまう。こんな風に贅沢なホテルに泊まらせてもらえて、甘やかされて、これからもっと甘やかされるんだと思ったら恥ずかしさと幸せな気持ちで溶けてしまいそうだ。

「……んっ!」

 そうして手を洗おうと水道の水に手を伸ばした時、背後から赤井さんが私の腰に腕を回してきた。そのまま首筋へと、唇を寄せてくる。ぞくっとする柔らかな感触は、明らかに熱を帯びている。ぺろりと、舐められたような気がして慌てて身じろぐと、鏡越しに赤井さんの悪戯っぽい視線と絡んだ。

「っ、ん!……ね、っちょっと、!」

 まずい、逃げなきゃ。そう思うのに、濡れた手ではどうにも抵抗できない。その場を動けないでいると、赤井さんの動きはさらに熱を帯びていって首筋から耳裏へと鼻ですーっとなぞられた。くすぐったさと、恥ずかしさに目を瞑ると、赤井さんはそこの匂いを嗅ぐかのように呼吸している。反射的に暴れてみるけれど、腰に回されていた腕はぐっと力が入っていて、とても抜け出せない。

「っ、や……っだめ、だって……っ!」
「確かに、がら空きだな」
「ねっ……ん……っ!」
「どうした、早く手を洗ってくれ」

 顔を上げれば、鏡越しに自分達の姿が映る。赤井さんに好き勝手に悪戯され、顔を真っ赤に染めている私と、とても愉しそうに目を細めて笑う赤井さん。

 じりじりと胸の方へ迫り来る赤井さんの左手の感触に、身体が震えた。くすぐったくて、少しいやらしくて。そんな悪戯が内心は嬉しくて、嫌だと言いながらも笑みが零れてしまう。全く、抵抗になんかなっていないただの戯れだ。

「っ、ね……まっ、て、!」
「ほら、石鹸もな?」

 そうして、この時間は延長を余儀なくされる。私は身体を捩りながら何とか手を洗い終えるけれど、そのままの勢いでシャワールームへ押し込まれてしまった。抗議の声を上げようとしたけれど、そんな隙も与えられる事なく唇を塞がれてしまう。

「ん、っ……あかぃ、さ、っ!」

 頭の片隅ではまだ抗おうとしているけれど、蕩け始めた思考は大して働いてくれない。

「っ……あ、お酒……っ、」
「大丈夫、先にこっちだ」

 ああ、もう。こうなってしまえば、誰にも止められない。服を洗面所に脱ぎ捨てて、そうして笑い合いながら身体を濡らしていく。甘い時間は、これからいっぱい。